ケンシロウ日記

思ったことを思いつくままに。

愛着障害を知って欲しい。

私は別ブログで育児ブログを書いています。娘は幼少期の体験から「愛着障害」の診断を受けています。検索が多かったので参考になる一つとしてあげます。

これは2013年5月22日の記事で、受け入れる側の視点で書かれたものです。今は、諸問題はあれど、かなり落ち着きを見せるようになり、親子関係も改善しています。

愛着障害の子どもは、大人の嫌がるところをこれでもか、これでもかとついてくるそうです。まさにそうでした。耐えがたいほどの苦痛の日々でした。

彼女に愛着障害という傷を負わせてしまったのは、親ではなく、特殊ともいえる環境でした。虐待などではない場合があります。お伝えします。

 

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時々、被害者意識を持て余すことがあります。 なんで、私が こんな目に合わなくちゃいけないんだろうって。 なんで、よりによってこんな子だったんだろうって。

「こんな子」。 なんてひどい言い方。 こんな言い方、私がしてると知ったら、 この子はきっと傷つく。 繊細だから。

彼女に罪はない。だけど。 くどい位、ここでも書いてきた 「抱っこして」。

彼女は不安になるとそう言う。 助けを必要とするときにもそう言う。 宿題ができないかもしれない不安。 私が怒ったんじゃないかという不安。 でも、求められてこの手を伸ばすと 絶対にまずは拒否。

愛着障害を持つ彼女の拒否反応は、 とても憎々しげで、 最近は成長と共に、 よりこちらにダメージを与える態度を 示すようになった。 生意気な言い方。強気な姿勢。 何ひとつ可愛くない。 自分から抱っこを求めておきながら、 手を伸ばす私から即座に離れ、 私を睨みつける。 憎しみを込めた目。 ここに至るまでには散々、 発達障害の特徴を炸裂させていて、 私の精神状態はすでにボロボロ。 それでも、自分を鼓舞しながら、 なんとか必死に彼女を受け止めようと努力してる。 毎日してる。

拒否されて、手を降ろすと、 即座にまた、今度はすがるように「抱っこ!」 仮にここで、抱っこできたら、 今度は膝の上で私から少しでも離れようと 体を離して、 やはり私を怒りの表情で睨みつけている。

彼女に怒ったふりは通用しなくて、 私が耐えられなくなるところまで 追い込んで追い込んでようやく。私が本気で怒るとようやく 一変して「ごめんなさい!」と 泣いて抱きついてくる。  こんな簡単な表現で、 読んで下さっている方に 分かってもらえるか自信ないけど、 もう説明する気力が 今夜の私にはもうなくて。

本当にきつい。

愛着障害は対象をとことん苛立たせる。 そして、それでも自分を受け入れてくれるのかどうかを 試さずにいられない。 彼女も辛い。 私も辛い。 時々、暗いドロドロした感情に ズブズブと呑まれていきそうな感覚になる。 人生が、とても長く感じる。 年々楽になってきているような気もしてる。 だけど、私のキャパはもう一杯一杯で。 明日はまた明日。 一晩寝たら、きっと私はまた立ち直る。 またやれるとこまでしかやれないんだから やれるとこまでやる。

 

 

 

被害者の顔写真は必要ですか。

 またしても子供が犠牲になる事件が起きました。

同じ子供を持つ者として胸が塞がれます。

そしてまた当然のように被害者の顔写真が報道されます。

 

報道の自由があります。ウィキペディアによれば「報道の自由とは、日本では報道機関がさまざまな表現媒体をもちいて、国民の『知る権利』に奉仕する存在である」とありました。とするならば、マスコミは国民の『知る権利』に応えて取材もするのでしょう。報道は実名が基本と聞きますから、加害者はもちろんですが、被害者も実名報道となることは理解できます。

 

加害者の顔写真のみが報道されないことがあります。被害者はさらされるのに、加害者は守られる。このような意見もよくなされます。心情的にはともかく、加害者の顔写真が報道されないことについては、素人感覚ですが理解はできます。加害者が未成年であれば少年法による所ですし、加害者に配慮すべき事情がある場合、あるいは冤罪が疑われる場合、逮捕されただけの段階で刑が確定していない場合など、何らかの理由が存在するのだと思います。

 

しかし、被害者の顔写真はどうでしょう。

被害者が最悪の結果を迎えた場合、ニュースでもワイドショーでも被害者の顔写真を報道します。それらの顔写真はいつもピンボケであったり、集合写真の切り抜きであったり。多くはご家族の方が提供されているとは思えないものです。そしてそれらの写真は、このネット社会において拡散され、拡散された写真は半永久的に残ると言われています。

 

私は、私の家族が、万が一にも被害者となったとするなら、私が提供するならともかく(とても提供する気になどならないと思いますが、その時の心境はその時でなければわからないと言う意味で)、いつ撮ったかもわからないような 適当な写真を、許可なく一方的にTV上にさらされる事は耐え難いことです。事件被害者として顔写真が報道されるという事は、その時点で最悪の結果を受け止めなければならない状態であり、そのような衝撃と混乱の中で、ある種、暴力とも言うべき報道のあり方に意義を唱える心の余裕などおそらく全くありません。心を殴られ続けるだけです。ただでさえ、回復に困難をきたす被害者ご家族を、私は視聴者と言う立場でさらに傷つけています。

 

非常に線引きが難しい問題だと思います。例えば、親による虐待で亡くなった子の場合等であれば、一概には言えませんが、顔写真を報道した方が良いと思われる場合も少なくないでしょう。報道されることによって私たちはより子供の立場に思いを馳せ、深く考えるきっかけにもなります。

 

 

前述したように、「報道の自由」からの『知る権利』があるという。事件のあり様や、その後の対応策を考えるにあたり、年齢等最低限の個人情報は必要だと思います。しかし、被害者の方のお顔は、被害者のご家族をさらに深く傷つけてまで、知っていい権利なのか。そんな権利があるのか、甚だ疑問です。

 

顔写真はいりません。もし私が被害者の方のお顔を知りたいと思うときは好奇心に過ぎないでしょう。そんなものに応えるための報道などいりません。

 

 

 

 

日本人人質事件<後藤さん殺害>について。自分ごととして想うことの苦しさからどうやって気持ちを立て直すか。

 昨朝のニュース衝撃を受けました。

ネットで見た後藤さんのツイートをご紹介します。

 

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」

 

「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」

 

昨日は、気を抜けば後藤さんのことで頭がいっぱいになり、何度も深い悲しみに心を奪われそうになりました。家族にも、なぜそこまで、と言われるほどでした。

子どもを守るのは大人の責任です。しかし、後藤さんの活動に理解と尊敬はしても、到底真似できるものではありません。多くの人に真似できるものでもありません。後藤さんの言葉や、映像に触れてしまってから、生きて帰ってきてほしいという気持ちがものすごく強くなっていました。

 

本当に残念です。ご家族のご心痛を思うと言葉がありません。

 

自分でも驚くほどに、テロ組織に対して憎しみの感情を覚えました。有志連合を支持するような思いが一瞬よぎり、私にとって初めてのその思いに驚きました。

 

1914年に起こった第一次世界大戦。この第一次で世界大戦の直接の原因になった、サラエボ事件を唐突に思い出しました。オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺された事件です。三国同盟三国協商を背景に下地ができていたとはいえ、中学時代、なぜ、たったひとつの暗殺事件が、世界大戦を引き起こしてしまうのか、理解ができませんでした。

それがある意味、今回初めて、大戦の引き金になった事件が引き金になり得た理由が、歴史的視野からなどではなく、個人的な感想として理解できるような気がしました。

 

後藤さんが最後に残した映像を思い返します。「自分に万一のことがあっても、シリアの人を憎まないでください」と言うあのメッセージ。後藤さんは、私にも一瞬よぎった、この人間の持つ愚かさを、よくよく知る人なのだということを改めて知らされました。

 

私は、日々起こる様々な事件や出来事に対して、共鳴しすぎるところがあります。それは、ニュースになるようなことだけではなく、日常的な出来事の中でもそうです。若い頃は、この厄介な感受性がとても嫌いでした。持て余し、コントロールが出来ませんでした。辛い事件や、他人が傷つくことに、いちいち傷つきました。

年齢を重ねた今の私は、家族でもない私が、ただ後藤さんの死を嘆き悲しむことに意味を持たない事を知っています。意味を持たないだけでなく、ネガティブな感情にただ支配されることは私にも他にも何も生まず、いいことなど1つもないことも知っています。それほどまでに本当に悲しいのであれば、この気持ちは、別のものに向かわせ乗り越えた方が良い。

後藤健二さんと言うジャーナリストのことを知ろうと思います。後藤健二さんが何を伝えていたかを知ろうと思います。そしてほんの少しでも、他国の戦火にある子どもたちや、弱者と呼ばれる方たちに思いを馳せようと思います。それが何もできない個人である私にせめて出来ることだと思うから。

自分ごととして想うことの苦しさからどうやって気持ちを立て直すか。それは自分に何ができるかを考え、それが仮に誰にも知られない小さなことであったとしても、行動を起こすことだと思います。

 

後藤さん、湯川さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

名古屋市女性殺害 女子学生事件について。「人を殺してみたかった」。

宗教活動への勧誘をきっかけに知り合った77歳の女性を殺害した容疑で逮捕された名古屋大の女子学生は「子どものころから人を殺してみたかった」と供述。凶器の手おのは「数年前に手に入れた」というこの事件。

 

 

「人を殺してみたい」という気持ちは、多くの方同様、私には全く理解ができません。殺してみたかったから殺す、とは、あまりにも理不尽、身勝手であり、どんな理由があっても容認される余地はありません。また、高校時代に友人に毒を飲ませ、その人生を狂わせたという供述も大きな衝撃でした。被害者やそのご家族を思えば、やりきれなさが募ります。

 

 

しかしなぜ、彼女はこの反社会的な欲望から逃れられなかったのか。社会に対する反感や憤りからの秋葉原事件等と、「人を殺してみたかった」と供述する10代からの若い世代の凶悪といえる犯罪とは性質が違うように思うのです。

 

 

人間の幼児期は残酷です。虫を口に入れようとしたり、羽をむしったり潰したり。小動物や犬猫に対しても、そのものへ恐怖がなければ、伸ばした手はその生き物を躊躇なく力の加減なく掴む。しかし私たちは、誰もが、幼児のそれに悪意がないことを知っています。

太古、動物を狩り、それを食することは生きる手段として当然のことでした。動物の腹を裂き、食せない内臓を取り出すことは、残酷なことではありませんでした。

現代においての子どもの倫理観や、生き物の命への尊重の気持ちは、自然にわき起こるものではなく、周囲の人間によって、育まれるものだと思います。

 

幼児に、虫にも命があることを教え、それをされたら相手が痛いのだと学ばせていく。繰り返し、色々な形で大人に指導され、生き物と接していく中で、子どもは倫理観や死生観を学んでいきます。

 

 

成育過程の中で、その倫理観なりが、なんらかの要因で阻害されることがあり、その上に死生観を学ぶ機会が充分でなければ、「死んだらどうなるのだろう」という誰もが持つ素朴なはずの疑問や好奇心が、歪んだ欲望に変化する可能性もあるのではないか、と思うのです。 だからどうだ、と言われるでしょう。

 

しかし、核家族化が進み、私のように虫も触れない大人が増えた現代は、人や生き物の現実的な「死」に触れる機会は、過去と比較して激減していると言えるでしょう。その反面、子どもの身近にあるゲームやアニメ、テレビドラマの世界では「死」や「血」が見慣れたものとしてそこにあり、殺人事件に胸を痛めることなく物語は展開される。幻想のような「死」が身近にありながら、現実感には乏しい世界を、子どもたちは生きています。

去年の佐世保の女子高生の同級生殺害事件同様、「人を殺してみたい」という身勝手な動機は、単純に精神疾患であり、自分とは全く別物だと思うことは簡単で納得しやすいものですし、実際、元々本人が持っている性質として、矯正が困難だという場合もあるでしょう。

しかし一方で。「死んだらどうなるのだろう」、ここに端を発する好奇心が、様々な要因によって歪んだ欲求に変化する可能性も否めないとも思うのです。好奇心は知識欲を刺激します。知識が増えていく毎に、新しい知識を欲しがるようになる。 精神疾患とは別の部分で、高度な知能を持つ子どもほど、実は何かの要因が幾重にも重なれば、人としての感情を置き去りにしたところでの、暗い好奇心を煽ってしまうことがあるのではないか。

結果的にこのような犯罪をおこしてしまう「可能性」に辿り着くこともあるかと。

しかしこの段階ではあくまで「可能性」であり、辿り着いたとしても、行動に起こすには、まだまだ大きな隔たりがあります。

 

「人を殺したい欲求」など、一般に理解できる感覚ではないので、精神疾患を疑うことを否定するわけではありません。しかし、そうだとしても単純に、犯人が異常だからという一言で片づけられるとも思いません。

 動機が常軌を逸していますので反論は当然ですし、環境のせいにして許されることでは無いことも当然承知しています。

 

 

「殺してみたい」

これは、自分自身や家族や周囲の人間、社会に対して愛情を強く持つ人間には到底及ばない発想です。逆に言えば、これらの愛情や信頼感がなく、親子関係を始めとする人間関係の根本が希薄であれば、何かのタイミングが重なってしまった時に、抑圧してきた好奇心を押さえ留めることが「未熟故に」できなくなってしまうことがあるのではないかと思うのです。

 

 

彼らは、自分が賢いことは知っているでしょう。

しかし、想像力や共感性が欠如している。

 

 

1人の人間が死んだときに、周囲の人間がどれほど悲しむか苦しむかが、自分の事として体感、想像が出来ない。自分の行動が、自分を取り巻く人たちをどれほど傷つけるのか実感することができない。

彼らの精神構造に仮に問題があったとしても、そのような人間は一定数存在するでしょう。しかし、存在していたとしても、殆どの人間は欲望を行動には移さない。その差はどこにあるのか。

 

 

大人の目による、適切な対処ができていなかった可能性は大きいのではないでしょうか。では、この場合の「適切な対処」とは何でしょう。

 

特異である彼らにとっては、学校の授業や家庭で「命の大切さ」を教えることや、傷つけられる人の気持ちに寄り添うことを指導する。こんなことでは通じなかったでしょう。

そもそも、そんなもので「命の大切さ」が理解できる感覚が持てる人間であれば、これほど身勝手な動機で殺人は起こさない。

 

 

彼らの成長過程のどこか、できるかで早い段階で、身近な大人が、特異性に気付く。次に残虐性を持つあの幼児期にまでさかのぼり、育て直しをする。この2点が行われていたら、回避できていた事件ではないかと思うのです。そのためには、いい意味で子どもの良心を疑うことも必要で、疑うことは、子どもを信じないということではありません。正しく見る、ということです。あるがままに見る、ということです。

 

思考に歪みを生じさせる何かが、成育歴のどこかであったかなかったか。あるいは、元々持っているものとして歪んだものを発見する。具体的に、どの段階で、彼らが一般的でなくなっていったのか、原因を探る。精神疾患であれば専門家の手を借りることが必要でしょう。どちらにせよ、彼らの思いを受け止め、凶行の1歩手前で、思いとどまらせる人間にすることは、周囲の大人の見守りの目の中で出来ると思うのです。

 

「人を殺してはいけない」ということが仮に理解できなかったとしても、「殺さない」という判断ができる人間になることは可能です。これは、法律が無ければ、殺人はもっと安易に行われるだろうと推測されることからも、言えることではないでしょうか。

 

 

擁護するつもりではありません。

加害者は許されるべきではありません。

 

しかし単に、犯罪の性質や加害者の異常性を批判するだけであれば、今後もこのような残虐で理不尽な事件は起こり得るでしょう。少年犯罪の多くは、彼らと私たちとの共通性がどこかにある。若年層の凶悪犯罪は、彼らの子ども時代から続く、大人である私たちの責任でもあり、課題でもあると思います。

 

 

被害者の方のご冥福を心よりお祈りします。

 

 

「自己責任」「自業自得」。今 言わなければならないことですか。

非常に難しい問題で、軽々しく書くことができなくて、ずっと悶々として思いを抱えていました。 自己責任論のあまりの大きさに戸惑います。

擁護するにせよその前に「自己責任とはいえ」などのように前置きがつく。
 

ただただ、助かってほしい。生きて帰ってきて欲しい。 色んな見解はあっても、ここは多くの日本国民の同じ思いだと思う。

 

テロに屈しないことの理由に、被害者の方々を「自己責任」や「自業自得」という言葉で非難する必要があるのかと疑問に思います。 要求を呑むか呑まないかと言う選択を迫られてる今だからこそ、呑まない理由としての「自己責任論」が必要なのだということなのでしょうけど。

 

仮に。仮に、です。自業自得と呼ばれる部分があったとしても、今回の事態のみならず、様々な犯罪にも言えることとして、被害に遭うという時点で、既に十分すぎる仕打ちを受けている。それに追い打ちをかけるように、被害者の方や被害者のご家族の方を傷つける必要がどこにあるんだろう。 もちろん結果的に、国を巻き込む事態になってしまった事はとてつもなく大きな問題だし、どんな理由があっても、このような事態になったことは被害者の方に何らかの見誤りがあったことには違いない。そのミスによって、国税が使われることに対して、迷惑をかけられているという意見があることも理解できないわけではない。

 

「行くこと事態が問題であり拘束されるのは当然のこと」

「日本国民に迷惑をかけるな」という文字を見ました。

 

私は幸いなことに現在の日本に生まれ育っています。 ”その地”に生まれ、生活をしている弱者と呼ばれる一般の人たちに、まなざしを向けるジャーナリストがいなかったら、”その地”に生まれる子どもたちにどんな未来があるのだろうと思います。

日本だって、つい半世紀少し前まで、国のために命をかけることは国民として当然であると声高に叫ばれているような国でした。不幸なあの戦争の敗戦による他国の介入がなければ、日本だっていつまで、今とは全く違う方向へ益々に突き進んでいたかわかりません。

政権に抑圧され虐げられている民間人の生活は、支配下にないところから彼らの生活を知ろうとする人がいなければ、そしてそれを世界に伝えようとする人がいなければ、知りようがありません。

馬鹿げた発想だと言われるのを承知で言えば、この日本が危険だと世界から恐れられる地域だったとして、危険だからと、世界の誰もが見て見ぬふりをする世界なのだったら、私は未来にどのような希望が持てるでしょう。

恐ろしくて何の行動もできない私のような人間とは違い、使命を持って活動される方々がいる。

 

自分の行動に責任を持つという意識は大切だと思います。だけど誰もが、誰かに迷惑を掛けながら生きている。

自己責任という言葉は、本人が他者に責任を負わせないという覚悟をする際、あるいはそれを自覚させる際等、事前に使う言葉ともいえます。「被害者」となった方の行動に意見する場合に使う言葉なのかと疑問に思います。その言葉を受ける対象者は、自己責任を問われる以前に、既になんらかの痛手を負っている「被害者」です。

 

「他人を救うために取る行動よりも守るべきものが他にある」などと言う意見は、守られるべき家族やその近親者のみが言える発言で、その家族に何の責任を持たない他人が容易く口にできるものだとも思いません。

 

どうか助かってほしい。生きて帰ってきて欲しいです。

 

 

「拝啓。小山薫堂特別編集長」

人はやさしさに触れるとどうして涙が出るんだろう。

 

今更なんだけどAERAの増大号を見た。『大特集』「やさしくなりたい」。

 

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冒頭のグラビアは、熊本が誇るアイドル「くまモン」にキスされた女の子の笑顔。

 

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言う必要もないことだと思うけど、言っておかなければ居心地が悪いから言えば、私は子どもが苦手。好きではない。嫌いとまで言えば、それはまた少し違うのだけど。

 

 

だけど「くまモン」に、ほっぺにキスされて笑うその女の子の笑顔はとてもよかった。見ていると、なんだか心が丸くなる感じがする。体のどこかをくすぐられているような。照れくさい感情を呼び起こされる感じがして「いやいや、私、子ども、苦手ですからっ!!」と慌てて言わないと、なんだかズルしている気がする。

子どもがこんなふうに笑って成長できる社会だったら、きっと悪質な犯罪なんてなくなるんだろうな。

 

 

無知な私は、今回の増大号の「小山薫堂特別編集長」も知らなかった。

 

心なごむ、ハートを鼻で隠した子どもの顔のようなイラストと

「やさしくなりたい」というAERAらしからぬ(と私は感じる)タイトルに惹かれ、手に取った1冊。薄いページの中にはやさしさが、嫌味なく押し付けることもなく、そっと詰め込まれていた。

少ないページの割に熊本の記事が多い気がした。熊本出身の私は、熊本びいきを感じて嬉しくなって購入してしまったのだった。ありがとう、魅力を紹介してくれて、という気持ち。

なんのことはない。小山薫堂さん、同郷だった。そりゃあ、熊本のやさしさを知るはずだ。

 

「雑誌だって読んだ人が元気になったり、幸せな気持ちになったりしなければ、存在する意味がない」というAERA編集長の浜田啓子さんの言葉も素敵だ。

 

 

小山薫堂特別編集長の編集後記にこう書いてあった。

 

 

『やさしさとは何でしょう?』

 

それは誰かを叱らないことでも、自分が怒らないことでもありません。

「他を想う力」です。

この世に存在する万物を“自分ごととして想う”ことが

「やさしさ」につながる、という考えに僕は至りました。

そしてその考え方は人を謙虚にします。

感謝の気持ちを芽生えさせます。

 

 

次のページには、小さなフォントサイズでびっしりと、全スタッフと協力者の名前がクレジットされていた。

それを見ていたら、どうしてだか上手く説明できないのだけど涙がでた。

 

小学生の娘がそのページを覗きこんで、そしてすぐに、私が気が付かなかったことを教えてくれた。びっしりの赤文字の中。黒文字で「ありがとう」という5つの文字がちりばめられていた。くーっ。こういう遊びゴコロもさりげなくていい。

 

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この世に存在する万物を“自分ごととして想う”

そんなところから意識して、今年を生きてみようと思う。