ケンシロウ日記

思ったことを思いつくままに。

AERA ’15.2.23 最新号 「『2分の1成人式』に戸惑う親子たち」の取材を受けて。

 

成人の半分の年齢、10歳を迎えたことを記念する行事「2分の1成人式」というものをご存じだろうか。

 

二分の一成人式」について、取材の申し込みを頂いたのは昨年末のことだった。一旦はお断りした。

 

理由は、これまでもよく分からないものはお断りしていたことと(こちらが受けるかどうか分からないものに対して、先方もどこまでを開示するかは考えられるところだと思う)、正直「二分の一成人式」について強い関心がなかったからだった。すぐに「問題視するほどの思いはない」とお返しした。

 

しかしその後、頂いたメールで、取材の経緯と主旨を改めてご説明いただく。ライターさんの人柄と仕事に対する姿勢に好感と強い興味を抱き、お引き受けさせていただいたのだった。とはいえ、無駄に意見を述べてしまい、まとめるのも困難で逆に迷惑をかけたのではないかと申し訳なく思っている。

 

ただ、この件で「二分の一成人式」を深く考えるきっかけになった。

 

ライターの武田砂鉄さんの思いに共感する一人として、だからこそ、掲載された記事での私の発言は、私の思いとは若干異なることから、改めて意見させて欲しい。

 

取材後、当初の原稿を拝見させて頂いた折、私は以下のように返信をし、若干の修正を求めた。

 

「この文章から受け取れるのは、普通の親子関係ではない私たちが、親子の絆を確かめ合う場にいることで傷ついているような気持ちかと。私は傷ついてはいません。当時感じたのは「違和感」ではなく、強いて言えば「戸惑い」だったでしょうか。

多様な家族構成がある現実から目を逸らして、ただ感動的なイベントにすることに満足している状態に疑問を感じています。

私達のようなある種、普通ではない家族の存在を忘れて欲しくないわけではありません。やるのであれば、そのような対象者が少なからずいる事を知った上で、意図を持ってやって欲しいと思っています」

 

実際に掲載された記事には、私の感想として「感動的なイベントにただただ満足している様子に疑問を感じざるを得なかった」とあった。

私は、親が感動している状態に疑問など感じていない。羨ましいと思いこそすれ、実に普通の姿だと思っている。ただ、私自身は式になんの感動もしなかったし、ハンカチなど不要だったというだけだ。

そして私が訂正を求めて返信した私自身の「感動的なイベントにすることに満足している状態に疑問を感じている」という言葉についても、誤解を招くと感じたので補足させて頂きたい。一般に保護者が折々の子どもの成長に触れる際、これは感動して当然のこと。私が指摘する「満足している状態への疑問」の対象は、保護者ではない。企画する教育機関の方だ。

 

「問題視するほどの思いはない」理由。

取材申し込みを頂いた際、私がなぜそう思ったか。

私が自分の娘のように育てている子どもは、亡くなった妹の子だ。彼女の父親は既に家庭を持ち養育は放棄している。

 

問題視するほどの思いがなかったのは、私たち家族がいわゆる「普通の家族」ではないという認識があるからだった。私のこの家族が世間一般ではないと自分たちで認識しているから。このイベントを面倒に思ったり、困ったり、うんざりしたりするのは私たちだけだからだ。

しかも、我が家の例においても、子どもが保育園年長時に引き取ってから、名まえの由来然り、もう何度もこの類の親子のルーツの確認作業は行われてきた。

自分たちだけしか関係ないと思われる不利益や面倒のために行事や、他の保護者が楽しみにしているイベントをなくそうと意見しようとまでは思わないし、都度それを行う気力も時間もないのが現実である。

 

更に言えば、例えばこの「二分の一成人式」に対して、私の否定的な考えを突き詰めれば、多様化した家族を尊重するあまり、学校という集団で家族の絆的道徳等を教えることが出来なくなってしまう。少数派を排除するわけではなく、多くの家庭に通じる一定の道徳や倫理観は教育が必要だと言えはしないか。

自分さえ黙っていたらと思う。

 

私が「二分の一成人式」の手紙を書きたくない、と別ブログで綴った1年前、当時のこの記事に、ある読者の方から貴重な意見を頂いている。いつも冷静で深い洞察を持つ読者の1人であるこの方は元教師とのこと。ご了承頂いていないので原文を掲載することは控え、私の言葉で書くが以下のような内容だった。

 

「20年以上前、自殺や傷害事件にあわせて、性犯罪の低年齢化など問題になっていた。 自己肯定感の低さが、原因ではないか、というところにたどり着いた。 <命を大切に>ということを、 本人に、ズシンと感じてもらうには、 やっぱり、周囲のヒトに大切に思われているという気づきが 大事なんじゃないか・・・と。 そこから始まった<わが子への手紙>なんです」

ここになんの異論があろうか。だから私は沈黙する。「問題視するほどの思いはない」と答える。悪い試みだとは思わないからだ。

しかしである。

……。いやいや、待てよ、と思い直す。

 

私と同じようにうんざりしている一部の家庭はわざわざ声は上げない。恐らくは私と似たり寄ったりの理由で。またここで気付く。少数派が意見を述べられない現状に。そして自分がこの少数派に属しているが故の沈黙であることに。

更には、本当にそれは少数なのか。私がこの少数に属していることなど、周囲の保護者は誰も知らない。同じように、私は、同じ学年のどの家庭がステップファミリーで、どの家庭の保護者がシングルであり、どの子が施設にいるかなど何も知らないのだ。

 

参加に消極的にならざるを得ない家族は、ここには意見は述べ難い。なぜなら、先に述べたように、私たちは、私たちの家族が、ある意味の「普通の家族」ではないということを知っているからだ。子どもと、生まれたときの感動を共有して愛情を確認し合う親子とはある意味、真逆の存在であるから。私は娘が生まれた時の感動も小さな手も、たどたどしい言い間違いも知らない。

 

二分の一成人式」。こんなものは、意義を教え、家庭で行えばいいじゃないかと思う。しかし、前述した、読者の方からのコメントを拝見し、なぜこの企画が始まったのかと言うところを考えれば、企画を立案された方々の考えは理解できなくはない。

自己肯定感を育む必要がある対象児童家庭において、それがある種の強制力を持たないのであれば家庭内で行われるわけがない。スルーされるだけ。だからこそ、学校で取り組む必要があると考えた人たちがいたのではないか。

 

ここで、今回のAERAにも登場されている、名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授 内田良氏の記事を拝見した。

考え直してほしい「2分の1成人式」――家族の多様化、被虐待児のケアに逆行する学校行事が大流行(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

内田氏はここで「二分の一成人式」を止めろと言っているわけではないことに気付く。

「○親に感謝の手紙をわたす。親からも手紙をもらう。

○自分の生い立ちを振り返る(写真、名前の由来)

これらの中身のなかで、私が学校の先生方に再検討していただきたいと思うのは、最後の2点である。」

 多様化する家族への配慮を求め、虐待児にとって居場所を失わせる式であることへの警鐘を鳴らし、一部について「考え直してほしい」と言っているのだった。

 昨今、家庭内における児童虐待の問題がこれほどクローズアップされているにもかかわらず、まるでそのような事態などありえないかのように、「感謝の手紙」が強制される。家庭で心身ともに深く傷つき、学校でも家族が美化されるとなれば、子どもはいったいどこに逃げればよいというのだろうか。

 

 

式を始めるのは簡単。止めることは続けることよりはるかに難しい。

実際、複雑な家庭や、仕事で忙しく子どもとゆっくり向き合う時間がない家庭などにおいて、「二分の一成人式」を通して、普段言えないことや、あるいは誤解していることの修正になることはあると思う。評価されるべきことも多いだろう。親子が向き合う時間を作ること自体は決して悪いことなど全くなく、それを無くすことに異論が出ることは想像に難くない。私の友人もフェイスブックで楽しみだと言っていた。ハンカチを持っていかなければならないと、ネットの文字でも見た。それが大多数ではあるのだろう。

 

「自己肯定感を育む必要がある対象児童家庭において、それがある種の強制力を持たないのであれば家庭内で行われるわけがない。スルーされるだけ。だからこそ、学校で取り組む必要があると考えた人たちがいたのではないか」と先ほど述べた。

しかし、本当の意味でここを目指すのであれば、虐待児等、自己肯定感を育む必要がある対象児童を持つ家庭において 現在の有りようでの「二分の一成人式」の形態でそれが有効に活用されることはないと断言したい。

いかに評価されるべきことがあろうと、目的から本末転倒になるのであれば、何のためにそれは行われるのかと問う。

 

虐待までいかなくとも、深刻な状態として「愛されていないと思っている子ども」が、家庭内で感じられない愛情をたかが1日のイベントで感じられるはずはなく、大人が無理やり感動的に演出しても、大人のあざとさを子どもが見透かさないわけがない。子どもを侮るなと言いたい。

 

そして一度やり始めた行事は止めることが難しい。楽しみにする保護者がいるからだ。そして真逆の意見を持つ家庭は沈黙する。結果、継続を止めることが困難になる。企画する学校関係者はもっと意義を明確にし、始めることに慎重になったほうがいい。

 

二分の一成人式」9割満足は本当か。

AERAの記事の中で2012年、ベネッセが行ったアンケートでは9割近くの保護者が満足と答えているという。ある意味それは私にとっても納得する結果だ。

なぜなら。そもそも「二分の一成人式」アンケートに、私(私のような、ともいえる)は答えないからだ。そして学校でアンケートを取られたら「やや満足」程度には答える。「不満」を表せばその理由書きが必要になるからである。わざわざ一体、何を書く。 「私は、うちの子の生れた時を知らないから書けずに居心地が悪かった」とか? そんな我が家の事情など、イベントが企画される以前に学校側は知っている。「普通の親子」と言われる形態とは少し違う家族が一定数いることなど分かってイベントは企画されているのだから、敢えて書いても意味はない。

そして、発表会、学芸会として観ればそれはそれなりに感動はある。私のような親でも子の成長には目を細める。しかし手紙やルーツの確認に、白々しい気持ちになっている。娘だって私が親ではないことなど知っていて、大人の考えたこのイベントに、付き合っている。私は手紙に嘘は書かないが、何かを書かなければと苦慮する家庭はあるだろう。

 

仮に9割、保護者の満足が得られたとして、子どもの自己肯定感を育むという本来の目的が本当に必要な児童に届かずに何の意味があるのだろうか。(※本当に「自己肯定感を育む」という目的があったかは確認できておらず、また現職の教師である方々がどの程度意義を認知しておられるかも不明ではあるが。これなくしては単に少数派を排除したお祭りになってしまいかねないのであると思いたい)

 

ただ、私が経験した式では、子どもの自己肯定感云々という意義は皆無で、何の説明もなされていない。事前に「お祝いしましょう」というだけの主旨と式次第のプリントが配られ、感動の手紙の交換とレクレーションが行われただけだ。

 

私個人としては「二分の一成人式」をやることを反対するつもりはない。

私自身、恐らくは娘もだが、あのイベントで傷ついてはいない。しかし現在の有りようでは、必要な式典だとは全く思わなかった。感動を演出された手紙の交換と子どもとのレクレーション。このイベントを成功させるために該当の先生たちは話し合い、企画を練り、プリントを刷り、時間をかけて達成する。内田氏の指摘される虐待児の存在の可能性や、少数の複雑な家庭事情をもつ家族に気付かない振りをしてまで、忙しい先生たちが、そこまでしてやる必要があるかどうかということを、今一度、考え直して良いのではないか。 

 

本来、親への感謝とか、子どもを愛しているということを伝えるという作業は、イベントを作って遂行するべきものではないと私は思う。そんなものは各家庭で行えばよいこと。出来ない家庭のために学校ができることは、愛情交換の場を提供することなどではない。学校の、いちイベントで愛情確認できるのなら少年犯罪なんて簡単になくなるはずだ。

 

 成人の半分の年齢、10歳を迎えたことを記念する行事「2分の1成人式」の意義をどこにおくか。

過去を振り返るにはまだ早い。10歳児がイベントを機に振り返って感じる親の愛情なんてどのみち、大したものじゃない。そんなことは自分が10歳だった時を思い返せばわかること。どうして大人は大人になると子どもだった自分の気持ちをこんなに簡単に忘れてしまうんだろう。

ルーツを知ることが悪いことだとも思わない。大人になるために、自己を確立する過程において大事なことだとも思う。しかし、ルーツを必要とする子どもにとってのそれは、個々に慎重に行われるべきで、まとめてやるイベントで解決するほど容易いはずがない。

 

ルーツではなく、作られる感動でもなく。

ただ、ここまで生きてきたことは簡単ではないこと知り、未来は自分の力で必ず変えられるのだと信じる。「二分の一成人式」。せっかくやるのであれば、未来が今よりも楽しみに思えるような、そんな式であることを希望する。

 

最後に。

 私はこんな式に傷ついてもいないけど、傷つく少数の弱者にまなざしを向ける人たちがいることに気付かされた経験でした。インタビューしてくれた武田氏がおっしゃっていました。言い続けるしかないって思うんですよね」

内田氏が意見されていた、虐待児についての式のありようについては、私たちの話とは遥か違うより深刻な問題ではあるけれど、私たちのような存在を含めたところで声をあげてくれる人がいる。その一端を知る人間として、問題から目を背け知らん顔をしているわけにはいかない気になりました。今回のこの記事は、それに該当する、いち保護者からの補足と捉えて頂ければありがたく思います。

声をかけてくださった武田氏、問題提起された内田氏に気付かされた部分は大きいです。お二人の思いとは、違う部分もそれなりにあるとは思いますが、気付きの深さに頭が下がります。お二人に感謝を込めて。