ケンシロウ日記

思ったことを思いつくままに。

名古屋市女性殺害 女子学生事件について。「人を殺してみたかった」。

宗教活動への勧誘をきっかけに知り合った77歳の女性を殺害した容疑で逮捕された名古屋大の女子学生は「子どものころから人を殺してみたかった」と供述。凶器の手おのは「数年前に手に入れた」というこの事件。

 

 

「人を殺してみたい」という気持ちは、多くの方同様、私には全く理解ができません。殺してみたかったから殺す、とは、あまりにも理不尽、身勝手であり、どんな理由があっても容認される余地はありません。また、高校時代に友人に毒を飲ませ、その人生を狂わせたという供述も大きな衝撃でした。被害者やそのご家族を思えば、やりきれなさが募ります。

 

 

しかしなぜ、彼女はこの反社会的な欲望から逃れられなかったのか。社会に対する反感や憤りからの秋葉原事件等と、「人を殺してみたかった」と供述する10代からの若い世代の凶悪といえる犯罪とは性質が違うように思うのです。

 

 

人間の幼児期は残酷です。虫を口に入れようとしたり、羽をむしったり潰したり。小動物や犬猫に対しても、そのものへ恐怖がなければ、伸ばした手はその生き物を躊躇なく力の加減なく掴む。しかし私たちは、誰もが、幼児のそれに悪意がないことを知っています。

太古、動物を狩り、それを食することは生きる手段として当然のことでした。動物の腹を裂き、食せない内臓を取り出すことは、残酷なことではありませんでした。

現代においての子どもの倫理観や、生き物の命への尊重の気持ちは、自然にわき起こるものではなく、周囲の人間によって、育まれるものだと思います。

 

幼児に、虫にも命があることを教え、それをされたら相手が痛いのだと学ばせていく。繰り返し、色々な形で大人に指導され、生き物と接していく中で、子どもは倫理観や死生観を学んでいきます。

 

 

成育過程の中で、その倫理観なりが、なんらかの要因で阻害されることがあり、その上に死生観を学ぶ機会が充分でなければ、「死んだらどうなるのだろう」という誰もが持つ素朴なはずの疑問や好奇心が、歪んだ欲望に変化する可能性もあるのではないか、と思うのです。 だからどうだ、と言われるでしょう。

 

しかし、核家族化が進み、私のように虫も触れない大人が増えた現代は、人や生き物の現実的な「死」に触れる機会は、過去と比較して激減していると言えるでしょう。その反面、子どもの身近にあるゲームやアニメ、テレビドラマの世界では「死」や「血」が見慣れたものとしてそこにあり、殺人事件に胸を痛めることなく物語は展開される。幻想のような「死」が身近にありながら、現実感には乏しい世界を、子どもたちは生きています。

去年の佐世保の女子高生の同級生殺害事件同様、「人を殺してみたい」という身勝手な動機は、単純に精神疾患であり、自分とは全く別物だと思うことは簡単で納得しやすいものですし、実際、元々本人が持っている性質として、矯正が困難だという場合もあるでしょう。

しかし一方で。「死んだらどうなるのだろう」、ここに端を発する好奇心が、様々な要因によって歪んだ欲求に変化する可能性も否めないとも思うのです。好奇心は知識欲を刺激します。知識が増えていく毎に、新しい知識を欲しがるようになる。 精神疾患とは別の部分で、高度な知能を持つ子どもほど、実は何かの要因が幾重にも重なれば、人としての感情を置き去りにしたところでの、暗い好奇心を煽ってしまうことがあるのではないか。

結果的にこのような犯罪をおこしてしまう「可能性」に辿り着くこともあるかと。

しかしこの段階ではあくまで「可能性」であり、辿り着いたとしても、行動に起こすには、まだまだ大きな隔たりがあります。

 

「人を殺したい欲求」など、一般に理解できる感覚ではないので、精神疾患を疑うことを否定するわけではありません。しかし、そうだとしても単純に、犯人が異常だからという一言で片づけられるとも思いません。

 動機が常軌を逸していますので反論は当然ですし、環境のせいにして許されることでは無いことも当然承知しています。

 

 

「殺してみたい」

これは、自分自身や家族や周囲の人間、社会に対して愛情を強く持つ人間には到底及ばない発想です。逆に言えば、これらの愛情や信頼感がなく、親子関係を始めとする人間関係の根本が希薄であれば、何かのタイミングが重なってしまった時に、抑圧してきた好奇心を押さえ留めることが「未熟故に」できなくなってしまうことがあるのではないかと思うのです。

 

 

彼らは、自分が賢いことは知っているでしょう。

しかし、想像力や共感性が欠如している。

 

 

1人の人間が死んだときに、周囲の人間がどれほど悲しむか苦しむかが、自分の事として体感、想像が出来ない。自分の行動が、自分を取り巻く人たちをどれほど傷つけるのか実感することができない。

彼らの精神構造に仮に問題があったとしても、そのような人間は一定数存在するでしょう。しかし、存在していたとしても、殆どの人間は欲望を行動には移さない。その差はどこにあるのか。

 

 

大人の目による、適切な対処ができていなかった可能性は大きいのではないでしょうか。では、この場合の「適切な対処」とは何でしょう。

 

特異である彼らにとっては、学校の授業や家庭で「命の大切さ」を教えることや、傷つけられる人の気持ちに寄り添うことを指導する。こんなことでは通じなかったでしょう。

そもそも、そんなもので「命の大切さ」が理解できる感覚が持てる人間であれば、これほど身勝手な動機で殺人は起こさない。

 

 

彼らの成長過程のどこか、できるかで早い段階で、身近な大人が、特異性に気付く。次に残虐性を持つあの幼児期にまでさかのぼり、育て直しをする。この2点が行われていたら、回避できていた事件ではないかと思うのです。そのためには、いい意味で子どもの良心を疑うことも必要で、疑うことは、子どもを信じないということではありません。正しく見る、ということです。あるがままに見る、ということです。

 

思考に歪みを生じさせる何かが、成育歴のどこかであったかなかったか。あるいは、元々持っているものとして歪んだものを発見する。具体的に、どの段階で、彼らが一般的でなくなっていったのか、原因を探る。精神疾患であれば専門家の手を借りることが必要でしょう。どちらにせよ、彼らの思いを受け止め、凶行の1歩手前で、思いとどまらせる人間にすることは、周囲の大人の見守りの目の中で出来ると思うのです。

 

「人を殺してはいけない」ということが仮に理解できなかったとしても、「殺さない」という判断ができる人間になることは可能です。これは、法律が無ければ、殺人はもっと安易に行われるだろうと推測されることからも、言えることではないでしょうか。

 

 

擁護するつもりではありません。

加害者は許されるべきではありません。

 

しかし単に、犯罪の性質や加害者の異常性を批判するだけであれば、今後もこのような残虐で理不尽な事件は起こり得るでしょう。少年犯罪の多くは、彼らと私たちとの共通性がどこかにある。若年層の凶悪犯罪は、彼らの子ども時代から続く、大人である私たちの責任でもあり、課題でもあると思います。

 

 

被害者の方のご冥福を心よりお祈りします。