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シェリナナ日記

思ったことを思いつくままに。

論理的思考について。続き。胸の奥の古傷が痛む。

前回の記事を書いた「翌日」から怒涛のトラブル続きで。気がつけばまさかの3ヶ月も放置。今更の続きで恐縮ですが読んでいただければ幸いです。頂いたコメントの承認もしないまま、大変申し訳ありませんでした。しっかり読ませていただきました。

 


前回からの続きの記事です。ある意味のマニアックな話ですが、懐かしい気持ちで思い返した話です。

 

ーーーーーーーーーーー

(前回記事からの続き)

新米編集長として順調に業績を上げていた私に先輩編集長から電話がありました。その要因を尋ねられたのです。


私が「はいっ。それはですね、多分…!」と、心を込めて丁寧に返答したにもかかわらず。質問者はその時は「ありがとうございました」と仰って、私は少しは役に立てたかなと、嬉しく誇らしい気持ちになったものでした。が、しかし実際は。その先輩編集長が、「シェリナナさんの説明の時は「わけがわからなかったけど」、アシスタント(をしてくれていた事務方の優秀な女性スタッフ)の返答で、よくわかりました」と言っていたとことを、上司の私へのチクリにより知りました。


とても優秀なスタッフだったので、(やっぱ賢いわ~)と感心するだけで、気にもせずに終わっていたんですが。

 


先日、 「マッキンゼーロジカルシンキング」という本を読んで当時をふと思い出しました。
当時の会社で、私は「コイツにやらせてみるか」という、試しで任命されていたようなものだと自覚もあったし、論理的でないことは東京に行われる全国編集長会議の席で致命的であり、劣等感に苛まれることでした。

思い出を辿ってしまい、いかに私が論理的に話が出来ないか、優秀な彼女と、私とでは何が違ったのか、という事を、今更、まじまじと再認識することになったのです。

読んだ「ロジカルシンキング」という本の話からの流れで、夫に、この当時の話をしたところ、彼にこう言われました。


「俺シェリナナと付き合って長いじゃん」

付き合ってというか、中学生の子どもがいることがおかしくないほどに一緒に暮らしてますがな。

 

「で、俺の見立てで考えるとね。多分シェリナナは、『メンバーのみんながめちゃくちゃ頑張ってくれて』とか、『メンバーの意識が変わってきた』みたいな話をするんだと思うんだよ」


あー。言いそう、言いそう。 

言う、言う、そんな感じのテキトーなやつ。


「でもね。説明したっていうその女の子は、多分こんな風に言うんだよ。『よくわかりませんけど、いつもシェリナナさんはこう言ってます』ってね」

(※ 私の受け持った版は新版なので、採用したメンバーも営業未経験者が多くいました。ここで話している事は営業歴が浅いメンバーに対しての話になります。ちなみに、営業経験がそれなりにある人に対しては、逆に、いかに効率よく短い時間で実績を上げられるか、という課題になってくるので、話す内容は全く別になります)

 

夫が想像する女性スタッフ談。


シェリナナさんはメンバーに「まずは100件まわれ」ていつも言ってますね。


100件目標で訪問しているうちには、話を聞いてくれる先に必ず出会う。

お客さんがお忙しい中、勝手に訪問しているわけだから、訪問先で厳しいこと言われてもそんなもの当たり前。仕事の手を止めさせるという失礼なことをしているんだから。だけど誤解するな。それは訪問行為を拒否しているだけであって、あなたの人格を否定されているわけじゃない。それでも否定されているようで苦しかったら、心を(傷つかないように)ロボットにして訪問する。

そしたらその過程できっと、何かいいことあるから。例えば、今まで冷たかった飛び込み先からの「いつも頑張ってるね」なんて言うねぎらいの言葉(辛さに耐えて新規開拓していると、こういう言葉に物凄く救われたりする)。「今月は考えないけど、来月ぐらいだったら…」という情報。

くじけそうになった時、必ずお客さんが助けてくれるから。必ず誰かあなたの頑張りを見ている人がいるから。


話を聞いてくれる先があったら、そのクライアントの大事な時間を奪っているという自覚を持つ。それなのに話を聞いてくださることに感謝をして、うちの商品が (ぶっちゃけ広告営業) お役に立てると信じて話をする。最大限の効果を上げる提案をする。信じて下さったクライアントに「やってよかったよ。これからもよろしく」と喜んでいただける結果を、役に立つ成果を上げる=ご恩返しをすること。今はできなくてもいい。

でもそれは忘れない。私たちの仕事は商品を売ることじゃない。クライアントの業績UPに貢献することが私たちの仕事。対価を頂くということは責任を伴う。

 

夫「みたいなね」

これらは、夫が転職して初めて営業になったときに、彼にアドバイスを求められて、私がしていた話の数々でした。


言ってた、言ってた。

でも、現実問題、獲ってこい、という話も当然しなければいけないわけなんだけどね。


「別の厳しいエリアなら、ここは 『120件を目標に回ってみて』 みたいな話をすると思うよ。


したな。

 

ちょっと余談になるけど。逆算が大事。目標を達成するにはその個人の力なら何件訪問が必要か。100件というのは覚悟でもあり、目標でもあり。これは個人の営業力によるので一概に言えないのだけど、例えば100軒回って10件の見込み客が出来る。10件の見込み客のうち、成約に結べるのが1件だったら、5件契約をあげるには500件の訪問量が必要になる。
だけど、力がついてきたら10件の見込み客から4~5件あげられるかもしれない。目標を達成するためには……。

いえ、つい延々熱く語りそうになってしまうけど、本題からどんどん逸れていくので、この辺でやめよう。

 


「で、シェリナナはメンバーの人が、 100件回ってきて一件も取れなくても、たぶんめちゃくちゃ褒めると思う」


褒める、褒める! というか、メンバーがそこまで頑張れたのなら、それは単純に心から嬉しい。一緒に事業を成功させたいと思っていたから。100件まわるって本当に大変だ。それは、それを長年やってきた私が1番よくわかっている。


「そういうことを言っていた、とその女性スタッフは説明したんじゃないかな」

 

なるほどねぇ。こういうのをロジカルな、と言えるのかもよくわからないけれど、とりあえずは私が、先輩編集長にメンタルの話しかしてなかったことだけは10年以上経った今頃、わかりました。


先月、この創刊期メンバーのみでの100名を超えが一堂に集結し、同窓会が開かれました。その時にも、何の話の流れだったか、飲みながら私が自虐的に「論理的になれない」と言ったら、今は会社経営をしている同期だった男性に、笑いをかみ殺すようにして「わかるわかる」と言われてしまった。
別の編集部だったのに、どうしてそこまで知ってるの? 自分で言うのはいいけど、あんなに納得されると複雑よ。書きながら、当時の劣等感を今更刺激。うっ。い、痛い。胸の奥の古傷が微かに痛む。


そしてこの同窓会が、前回のブログ更新から散々な悪夢に拍車をかけて、私の更なる厳しい現実を突きつけられることになったのでありました。

それではまた。

今度こそ、こんなに長く空けないぞ!

 

論理的になりたい。「マッキンゼー式 ロジカルシンキング」を読んで。

論理的になりたい。

つい昨日読み終えたばかりの本。
マッキンゼー式 ロジカルシンキング

思考整理術です。


と、その前に。
このブログの更新、およそ2年ぶりです。
コメント受信通知もしていなかったので
この2年の間にいただいていた
数件のコメントを承認もせず
2年経過しているので
気づいて頂けるとは思っていませんが
むしろ承認が失礼ではないかと思いますが
承認させていただきました。


なぜ更新が2年もストップしてしまったかというと。

このブログ、
私にとって、
ちょっと負荷がかかっていたんですよね。

もう一つ管理している別ブログが
あまりにも思いつくままに
推敲なしに書いてるもので
こっちはもう少し
きちんと書きたいなと思ったわけです。


それなりに興味のあることを
好きに書きはしたものの
「伝わる」ということ意識して推敲して、
と、やっていたら
まぁ、めんどくさいことこの上なくて。

このスタイル、
たまにならいいけど
私にはちょっと無理。と気がつきました。
結果、放置。

せっかく読んでくださっていたわずかな方には
本当に失礼なことをしたと思っています。
すみませんでした。

でも基本的に書く事はストレス解消になるし。
ここでは今後、仕事をしていくうえでの
気付きになればいいなと言う気持ちで
思いつくことを
やっぱり書いていこうと思います。


そもそもこのブログが破綻したのは
私が「論理的に話す」ことが
苦手だからです。
「伝えたい」という気持ちを
うまく表現するには
論理的に話すことが必要です。
だから無理しちゃったんですよね。

 

で、頭に戻ります。
マッキンゼー式 ロジカルシンキング

マッキンゼー」というのは
お仕事をされてる方には
見聞きしたことがある社名だと思いますが
世界最高と言われるコンサルティング会社です。

この本は
「論理的思考」= 「ロジカルシンキング」が
学べる本でした。

今日話したいのは
「論理的思考」を
どうやったら身につけられるか。

……などと言う話ではなく。


この本を読んで
本当に私は「論理的思考」を
してこなかったのだなぁと
今更ながらに気づいたというお話です。

 

唐突ですが、私は以前
リクルートという会社に在籍していました。
ご承知のように、
リクルートは様々な媒体を世に送り出していますが
一時期、どなたも聞いたことのある
その情報誌の編集長をしていた時期があります。

結婚退職するまでの
もう10数年前の話です。


当時のリクルート
ブラック企業と言っていいのかわかりませんが
半端なく、死ぬほど忙しかったです。
毎晩終電でした。
実際、あのままの働き方を続けていたら
理解のない夫には確実に捨てられるし
その前に死ぬな、という。

でも収入も良かったですし
上司やメンバーも
個性豊かで、尊敬できる人たちばかり。
仕事が好きだった私にとっては
完全にホワイトでしたけどね。

今は東証1部に上場もして
(意外にも上場は2014年10月)
それから残業についての見直し等
ずいぶん変わったと
現職の方からは聞いています。

 

私が編集長になったのはこのずっと前。

実力も伴わないのに
試しでやらされたのだと思っています。
ダメだった速攻異動させられるだけです。
そういうところに躊躇するような会社では
有りませんでしたから。


でも、実力がないのに
営業チーフから、編集長に昇進した私は
他のどの編集長より
必死でやらないと追いつかなかったというのが
実のところ。


当時、出張で参加する編集長会議
(実際は別の呼称)は
私には意味のわからない横文字が飛び交う会議で
営業チーフ時代ですら
何を話しているのか、さっぱりわからなかった私は
(日本語で話せ、日本語で!ここは日本だ)と
心の中で益々泣いていました。


「ロジカル」と言う単語は特に
いやというほど聞かされていました。

正直に言います。
あんなに何度も聞かされた会議の席。
神妙な顔でうなずいていましたけど。
「ロジカル」という言葉の意味は漠然としていて
当時私はよく分かりませんでした。
あああっ。
こんなこと、リクルート時代の知り合いの
誰にも知られたくない。

 

私は日々 、あたふたしていましたが
私の持つ編集部は
私が編集長になったその月に
売り上げをガクンと一度は落としはしたものの
(これは私の自信のなさが
メンバーに影響与えてしまったのだと確信しています)

それから怒濤の売り上げを伸ばしていきます。
私の力と言う訳でもなく
まあ、そういう時期でもありました。


そんなある日、
研修で一緒になっただけの
某都市の先輩編集長から電話がかかりました。
(同期に同じ立場の人はいなかったので
当時、私は一番下っ端編集長。
全国の全員が先輩でした)


「業績、すごいですね。
どうやったらそう伸びるのか教えてください」


私は、私なりに
心を込めて!思う所を伝えたわけですけれども。

その方も「ありがとうございました」と言って
電話を切られたのですが。


その後、私を育ててくれた上司に
こう言われます。

「○○(某都市編集長)が
業績が上がる要因を
お前に聞いたけど
何言ってるか、わけ解らんかったって言うとったぞ」

がーん。
しかも。

私の近くには事務的なことを一手に担ってくれる
優秀な女性スタッフがいたのですが。

「お前がおらん時に○○ちゃん(その女性スタッフ)に
同じこと聞いたら
ようやく解ったって言うとったわ」

えーーーーっ。
営業は彼女の管轄外だし
当然、メンバーへの営業指導は全て私が行っていたこと。
数字のことには全くタッチしていないはずなのに
どうしてーーー泣。

 

今回、 「マッキンゼー式 ロジカルシンキング」の本を読み
かつ、夫に論理的に推測してもらい
思い出したこのときの謎を解くことができました。

疲れたので、続きはまた次回で。

AERA ’15.2.23 最新号 「『2分の1成人式』に戸惑う親子たち」の取材を受けて。

 

成人の半分の年齢、10歳を迎えたことを記念する行事「2分の1成人式」というものをご存じだろうか。

 

二分の一成人式」について、取材の申し込みを頂いたのは昨年末のことだった。一旦はお断りした。

 

理由は、これまでもよく分からないものはお断りしていたことと(こちらが受けるかどうか分からないものに対して、先方もどこまでを開示するかは考えられるところだと思う)、正直「二分の一成人式」について強い関心がなかったからだった。すぐに「問題視するほどの思いはない」とお返しした。

 

しかしその後、頂いたメールで、取材の経緯と主旨を改めてご説明いただく。ライターさんの人柄と仕事に対する姿勢に好感と強い興味を抱き、お引き受けさせていただいたのだった。とはいえ、無駄に意見を述べてしまい、まとめるのも困難で逆に迷惑をかけたのではないかと申し訳なく思っている。

 

ただ、この件で「二分の一成人式」を深く考えるきっかけになった。

 

ライターの武田砂鉄さんの思いに共感する一人として、だからこそ、掲載された記事での私の発言は、私の思いとは若干異なることから、改めて意見させて欲しい。

 

取材後、当初の原稿を拝見させて頂いた折、私は以下のように返信をし、若干の修正を求めた。

 

「この文章から受け取れるのは、普通の親子関係ではない私たちが、親子の絆を確かめ合う場にいることで傷ついているような気持ちかと。私は傷ついてはいません。当時感じたのは「違和感」ではなく、強いて言えば「戸惑い」だったでしょうか。

多様な家族構成がある現実から目を逸らして、ただ感動的なイベントにすることに満足している状態に疑問を感じています。

私達のようなある種、普通ではない家族の存在を忘れて欲しくないわけではありません。やるのであれば、そのような対象者が少なからずいる事を知った上で、意図を持ってやって欲しいと思っています」

 

実際に掲載された記事には、私の感想として「感動的なイベントにただただ満足している様子に疑問を感じざるを得なかった」とあった。

私は、親が感動している状態に疑問など感じていない。羨ましいと思いこそすれ、実に普通の姿だと思っている。ただ、私自身は式になんの感動もしなかったし、ハンカチなど不要だったというだけだ。

そして私が訂正を求めて返信した私自身の「感動的なイベントにすることに満足している状態に疑問を感じている」という言葉についても、誤解を招くと感じたので補足させて頂きたい。一般に保護者が折々の子どもの成長に触れる際、これは感動して当然のこと。私が指摘する「満足している状態への疑問」の対象は、保護者ではない。企画する教育機関の方だ。

 

「問題視するほどの思いはない」理由。

取材申し込みを頂いた際、私がなぜそう思ったか。

私が自分の娘のように育てている子どもは、亡くなった妹の子だ。彼女の父親は既に家庭を持ち養育は放棄している。

 

問題視するほどの思いがなかったのは、私たち家族がいわゆる「普通の家族」ではないという認識があるからだった。私のこの家族が世間一般ではないと自分たちで認識しているから。このイベントを面倒に思ったり、困ったり、うんざりしたりするのは私たちだけだからだ。

しかも、我が家の例においても、子どもが保育園年長時に引き取ってから、名まえの由来然り、もう何度もこの類の親子のルーツの確認作業は行われてきた。

自分たちだけしか関係ないと思われる不利益や面倒のために行事や、他の保護者が楽しみにしているイベントをなくそうと意見しようとまでは思わないし、都度それを行う気力も時間もないのが現実である。

 

更に言えば、例えばこの「二分の一成人式」に対して、私の否定的な考えを突き詰めれば、多様化した家族を尊重するあまり、学校という集団で家族の絆的道徳等を教えることが出来なくなってしまう。少数派を排除するわけではなく、多くの家庭に通じる一定の道徳や倫理観は教育が必要だと言えはしないか。

自分さえ黙っていたらと思う。

 

私が「二分の一成人式」の手紙を書きたくない、と別ブログで綴った1年前、当時のこの記事に、ある読者の方から貴重な意見を頂いている。いつも冷静で深い洞察を持つ読者の1人であるこの方は元教師とのこと。ご了承頂いていないので原文を掲載することは控え、私の言葉で書くが以下のような内容だった。

 

「20年以上前、自殺や傷害事件にあわせて、性犯罪の低年齢化など問題になっていた。 自己肯定感の低さが、原因ではないか、というところにたどり着いた。 <命を大切に>ということを、 本人に、ズシンと感じてもらうには、 やっぱり、周囲のヒトに大切に思われているという気づきが 大事なんじゃないか・・・と。 そこから始まった<わが子への手紙>なんです」

ここになんの異論があろうか。だから私は沈黙する。「問題視するほどの思いはない」と答える。悪い試みだとは思わないからだ。

しかしである。

……。いやいや、待てよ、と思い直す。

 

私と同じようにうんざりしている一部の家庭はわざわざ声は上げない。恐らくは私と似たり寄ったりの理由で。またここで気付く。少数派が意見を述べられない現状に。そして自分がこの少数派に属しているが故の沈黙であることに。

更には、本当にそれは少数なのか。私がこの少数に属していることなど、周囲の保護者は誰も知らない。同じように、私は、同じ学年のどの家庭がステップファミリーで、どの家庭の保護者がシングルであり、どの子が施設にいるかなど何も知らないのだ。

 

参加に消極的にならざるを得ない家族は、ここには意見は述べ難い。なぜなら、先に述べたように、私たちは、私たちの家族が、ある意味の「普通の家族」ではないということを知っているからだ。子どもと、生まれたときの感動を共有して愛情を確認し合う親子とはある意味、真逆の存在であるから。私は娘が生まれた時の感動も小さな手も、たどたどしい言い間違いも知らない。

 

二分の一成人式」。こんなものは、意義を教え、家庭で行えばいいじゃないかと思う。しかし、前述した、読者の方からのコメントを拝見し、なぜこの企画が始まったのかと言うところを考えれば、企画を立案された方々の考えは理解できなくはない。

自己肯定感を育む必要がある対象児童家庭において、それがある種の強制力を持たないのであれば家庭内で行われるわけがない。スルーされるだけ。だからこそ、学校で取り組む必要があると考えた人たちがいたのではないか。

 

ここで、今回のAERAにも登場されている、名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授 内田良氏の記事を拝見した。

考え直してほしい「2分の1成人式」――家族の多様化、被虐待児のケアに逆行する学校行事が大流行(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

内田氏はここで「二分の一成人式」を止めろと言っているわけではないことに気付く。

「○親に感謝の手紙をわたす。親からも手紙をもらう。

○自分の生い立ちを振り返る(写真、名前の由来)

これらの中身のなかで、私が学校の先生方に再検討していただきたいと思うのは、最後の2点である。」

 多様化する家族への配慮を求め、虐待児にとって居場所を失わせる式であることへの警鐘を鳴らし、一部について「考え直してほしい」と言っているのだった。

 昨今、家庭内における児童虐待の問題がこれほどクローズアップされているにもかかわらず、まるでそのような事態などありえないかのように、「感謝の手紙」が強制される。家庭で心身ともに深く傷つき、学校でも家族が美化されるとなれば、子どもはいったいどこに逃げればよいというのだろうか。

 

 

式を始めるのは簡単。止めることは続けることよりはるかに難しい。

実際、複雑な家庭や、仕事で忙しく子どもとゆっくり向き合う時間がない家庭などにおいて、「二分の一成人式」を通して、普段言えないことや、あるいは誤解していることの修正になることはあると思う。評価されるべきことも多いだろう。親子が向き合う時間を作ること自体は決して悪いことなど全くなく、それを無くすことに異論が出ることは想像に難くない。私の友人もフェイスブックで楽しみだと言っていた。ハンカチを持っていかなければならないと、ネットの文字でも見た。それが大多数ではあるのだろう。

 

「自己肯定感を育む必要がある対象児童家庭において、それがある種の強制力を持たないのであれば家庭内で行われるわけがない。スルーされるだけ。だからこそ、学校で取り組む必要があると考えた人たちがいたのではないか」と先ほど述べた。

しかし、本当の意味でここを目指すのであれば、虐待児等、自己肯定感を育む必要がある対象児童を持つ家庭において 現在の有りようでの「二分の一成人式」の形態でそれが有効に活用されることはないと断言したい。

いかに評価されるべきことがあろうと、目的から本末転倒になるのであれば、何のためにそれは行われるのかと問う。

 

虐待までいかなくとも、深刻な状態として「愛されていないと思っている子ども」が、家庭内で感じられない愛情をたかが1日のイベントで感じられるはずはなく、大人が無理やり感動的に演出しても、大人のあざとさを子どもが見透かさないわけがない。子どもを侮るなと言いたい。

 

そして一度やり始めた行事は止めることが難しい。楽しみにする保護者がいるからだ。そして真逆の意見を持つ家庭は沈黙する。結果、継続を止めることが困難になる。企画する学校関係者はもっと意義を明確にし、始めることに慎重になったほうがいい。

 

二分の一成人式」9割満足は本当か。

AERAの記事の中で2012年、ベネッセが行ったアンケートでは9割近くの保護者が満足と答えているという。ある意味それは私にとっても納得する結果だ。

なぜなら。そもそも「二分の一成人式」アンケートに、私(私のような、ともいえる)は答えないからだ。そして学校でアンケートを取られたら「やや満足」程度には答える。「不満」を表せばその理由書きが必要になるからである。わざわざ一体、何を書く。 「私は、うちの子の生れた時を知らないから書けずに居心地が悪かった」とか? そんな我が家の事情など、イベントが企画される以前に学校側は知っている。「普通の親子」と言われる形態とは少し違う家族が一定数いることなど分かってイベントは企画されているのだから、敢えて書いても意味はない。

そして、発表会、学芸会として観ればそれはそれなりに感動はある。私のような親でも子の成長には目を細める。しかし手紙やルーツの確認に、白々しい気持ちになっている。娘だって私が親ではないことなど知っていて、大人の考えたこのイベントに、付き合っている。私は手紙に嘘は書かないが、何かを書かなければと苦慮する家庭はあるだろう。

 

仮に9割、保護者の満足が得られたとして、子どもの自己肯定感を育むという本来の目的が本当に必要な児童に届かずに何の意味があるのだろうか。(※本当に「自己肯定感を育む」という目的があったかは確認できておらず、また現職の教師である方々がどの程度意義を認知しておられるかも不明ではあるが。これなくしては単に少数派を排除したお祭りになってしまいかねないのであると思いたい)

 

ただ、私が経験した式では、子どもの自己肯定感云々という意義は皆無で、何の説明もなされていない。事前に「お祝いしましょう」というだけの主旨と式次第のプリントが配られ、感動の手紙の交換とレクレーションが行われただけだ。

 

私個人としては「二分の一成人式」をやることを反対するつもりはない。

私自身、恐らくは娘もだが、あのイベントで傷ついてはいない。しかし現在の有りようでは、必要な式典だとは全く思わなかった。感動を演出された手紙の交換と子どもとのレクレーション。このイベントを成功させるために該当の先生たちは話し合い、企画を練り、プリントを刷り、時間をかけて達成する。内田氏の指摘される虐待児の存在の可能性や、少数の複雑な家庭事情をもつ家族に気付かない振りをしてまで、忙しい先生たちが、そこまでしてやる必要があるかどうかということを、今一度、考え直して良いのではないか。 

 

本来、親への感謝とか、子どもを愛しているということを伝えるという作業は、イベントを作って遂行するべきものではないと私は思う。そんなものは各家庭で行えばよいこと。出来ない家庭のために学校ができることは、愛情交換の場を提供することなどではない。学校の、いちイベントで愛情確認できるのなら少年犯罪なんて簡単になくなるはずだ。

 

 成人の半分の年齢、10歳を迎えたことを記念する行事「2分の1成人式」の意義をどこにおくか。

過去を振り返るにはまだ早い。10歳児がイベントを機に振り返って感じる親の愛情なんてどのみち、大したものじゃない。そんなことは自分が10歳だった時を思い返せばわかること。どうして大人は大人になると子どもだった自分の気持ちをこんなに簡単に忘れてしまうんだろう。

ルーツを知ることが悪いことだとも思わない。大人になるために、自己を確立する過程において大事なことだとも思う。しかし、ルーツを必要とする子どもにとってのそれは、個々に慎重に行われるべきで、まとめてやるイベントで解決するほど容易いはずがない。

 

ルーツではなく、作られる感動でもなく。

ただ、ここまで生きてきたことは簡単ではないこと知り、未来は自分の力で必ず変えられるのだと信じる。「二分の一成人式」。せっかくやるのであれば、未来が今よりも楽しみに思えるような、そんな式であることを希望する。

 

最後に。

 私はこんな式に傷ついてもいないけど、傷つく少数の弱者にまなざしを向ける人たちがいることに気付かされた経験でした。インタビューしてくれた武田氏がおっしゃっていました。言い続けるしかないって思うんですよね」

内田氏が意見されていた、虐待児についての式のありようについては、私たちの話とは遥か違うより深刻な問題ではあるけれど、私たちのような存在を含めたところで声をあげてくれる人がいる。その一端を知る人間として、問題から目を背け知らん顔をしているわけにはいかない気になりました。今回のこの記事は、それに該当する、いち保護者からの補足と捉えて頂ければありがたく思います。

声をかけてくださった武田氏、問題提起された内田氏に気付かされた部分は大きいです。お二人の思いとは、違う部分もそれなりにあるとは思いますが、気付きの深さに頭が下がります。お二人に感謝を込めて。 

 

 

愛着障害を知って欲しい。

私は別ブログで育児ブログを書いています。娘は幼少期の体験から「愛着障害」の診断を受けています。検索が多かったので参考になる一つとしてあげます。

これは2013年5月22日の記事で、受け入れる側の視点で書かれたものです。今は、諸問題はあれど、かなり落ち着きを見せるようになり、親子関係も改善しています。

愛着障害の子どもは、大人の嫌がるところをこれでもか、これでもかとついてくるそうです。まさにそうでした。耐えがたいほどの苦痛の日々でした。

彼女に愛着障害という傷を負わせてしまったのは、親ではなく、特殊ともいえる環境でした。虐待などではない場合があります。お伝えします。

 

ーーーーーーーーーーーー

 

時々、被害者意識を持て余すことがあります。 なんで、私が こんな目に合わなくちゃいけないんだろうって。 なんで、よりによってこんな子だったんだろうって。

「こんな子」。 なんてひどい言い方。 こんな言い方、私がしてると知ったら、 この子はきっと傷つく。 繊細だから。

彼女に罪はない。だけど。 くどい位、ここでも書いてきた 「抱っこして」。

彼女は不安になるとそう言う。 助けを必要とするときにもそう言う。 宿題ができないかもしれない不安。 私が怒ったんじゃないかという不安。 でも、求められてこの手を伸ばすと 絶対にまずは拒否。

愛着障害を持つ彼女の拒否反応は、 とても憎々しげで、 最近は成長と共に、 よりこちらにダメージを与える態度を 示すようになった。 生意気な言い方。強気な姿勢。 何ひとつ可愛くない。 自分から抱っこを求めておきながら、 手を伸ばす私から即座に離れ、 私を睨みつける。 憎しみを込めた目。 ここに至るまでには散々、 発達障害の特徴を炸裂させていて、 私の精神状態はすでにボロボロ。 それでも、自分を鼓舞しながら、 なんとか必死に彼女を受け止めようと努力してる。 毎日してる。

拒否されて、手を降ろすと、 即座にまた、今度はすがるように「抱っこ!」 仮にここで、抱っこできたら、 今度は膝の上で私から少しでも離れようと 体を離して、 やはり私を怒りの表情で睨みつけている。

彼女に怒ったふりは通用しなくて、 私が耐えられなくなるところまで 追い込んで追い込んでようやく。私が本気で怒るとようやく 一変して「ごめんなさい!」と 泣いて抱きついてくる。  こんな簡単な表現で、 読んで下さっている方に 分かってもらえるか自信ないけど、 もう説明する気力が 今夜の私にはもうなくて。

本当にきつい。

愛着障害は対象をとことん苛立たせる。 そして、それでも自分を受け入れてくれるのかどうかを 試さずにいられない。 彼女も辛い。 私も辛い。 時々、暗いドロドロした感情に ズブズブと呑まれていきそうな感覚になる。 人生が、とても長く感じる。 年々楽になってきているような気もしてる。 だけど、私のキャパはもう一杯一杯で。 明日はまた明日。 一晩寝たら、きっと私はまた立ち直る。 またやれるとこまでしかやれないんだから やれるとこまでやる。

 

 

 

被害者の顔写真は必要ですか。

 またしても子供が犠牲になる事件が起きました。

同じ子供を持つ者として胸が塞がれます。

そしてまた当然のように被害者の顔写真が報道されます。

 

報道の自由があります。ウィキペディアによれば「報道の自由とは、日本では報道機関がさまざまな表現媒体をもちいて、国民の『知る権利』に奉仕する存在である」とありました。とするならば、マスコミは国民の『知る権利』に応えて取材もするのでしょう。報道は実名が基本と聞きますから、加害者はもちろんですが、被害者も実名報道となることは理解できます。

 

加害者の顔写真のみが報道されないことがあります。被害者はさらされるのに、加害者は守られる。このような意見もよくなされます。心情的にはともかく、加害者の顔写真が報道されないことについては、素人感覚ですが理解はできます。加害者が未成年であれば少年法による所ですし、加害者に配慮すべき事情がある場合、あるいは冤罪が疑われる場合、逮捕されただけの段階で刑が確定していない場合など、何らかの理由が存在するのだと思います。

 

しかし、被害者の顔写真はどうでしょう。

被害者が最悪の結果を迎えた場合、ニュースでもワイドショーでも被害者の顔写真を報道します。それらの顔写真はいつもピンボケであったり、集合写真の切り抜きであったり。多くはご家族の方が提供されているとは思えないものです。そしてそれらの写真は、このネット社会において拡散され、拡散された写真は半永久的に残ると言われています。

 

私は、私の家族が、万が一にも被害者となったとするなら、私が提供するならともかく(とても提供する気になどならないと思いますが、その時の心境はその時でなければわからないと言う意味で)、いつ撮ったかもわからないような 適当な写真を、許可なく一方的にTV上にさらされる事は耐え難いことです。事件被害者として顔写真が報道されるという事は、その時点で最悪の結果を受け止めなければならない状態であり、そのような衝撃と混乱の中で、ある種、暴力とも言うべき報道のあり方に意義を唱える心の余裕などおそらく全くありません。心を殴られ続けるだけです。ただでさえ、回復に困難をきたす被害者ご家族を、私は視聴者と言う立場でさらに傷つけています。

 

非常に線引きが難しい問題だと思います。例えば、親による虐待で亡くなった子の場合等であれば、一概には言えませんが、顔写真を報道した方が良いと思われる場合も少なくないでしょう。報道されることによって私たちはより子供の立場に思いを馳せ、深く考えるきっかけにもなります。

 

 

前述したように、「報道の自由」からの『知る権利』があるという。事件のあり様や、その後の対応策を考えるにあたり、年齢等最低限の個人情報は必要だと思います。しかし、被害者の方のお顔は、被害者のご家族をさらに深く傷つけてまで、知っていい権利なのか。そんな権利があるのか、甚だ疑問です。

 

顔写真はいりません。もし私が被害者の方のお顔を知りたいと思うときは好奇心に過ぎないでしょう。そんなものに応えるための報道などいりません。

 

 

 

 

日本人人質事件<後藤さん殺害>について。自分ごととして想うことの苦しさからどうやって気持ちを立て直すか。

 昨朝のニュース衝撃を受けました。

ネットで見た後藤さんのツイートをご紹介します。

 

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」

 

「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」

 

昨日は、気を抜けば後藤さんのことで頭がいっぱいになり、何度も深い悲しみに心を奪われそうになりました。家族にも、なぜそこまで、と言われるほどでした。

子どもを守るのは大人の責任です。しかし、後藤さんの活動に理解と尊敬はしても、到底真似できるものではありません。多くの人に真似できるものでもありません。後藤さんの言葉や、映像に触れてしまってから、生きて帰ってきてほしいという気持ちがものすごく強くなっていました。

 

本当に残念です。ご家族のご心痛を思うと言葉がありません。

 

自分でも驚くほどに、テロ組織に対して憎しみの感情を覚えました。有志連合を支持するような思いが一瞬よぎり、私にとって初めてのその思いに驚きました。

 

1914年に起こった第一次世界大戦。この第一次で世界大戦の直接の原因になった、サラエボ事件を唐突に思い出しました。オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺された事件です。三国同盟三国協商を背景に下地ができていたとはいえ、中学時代、なぜ、たったひとつの暗殺事件が、世界大戦を引き起こしてしまうのか、理解ができませんでした。

それがある意味、今回初めて、大戦の引き金になった事件が引き金になり得た理由が、歴史的視野からなどではなく、個人的な感想として理解できるような気がしました。

 

後藤さんが最後に残した映像を思い返します。「自分に万一のことがあっても、シリアの人を憎まないでください」と言うあのメッセージ。後藤さんは、私にも一瞬よぎった、この人間の持つ愚かさを、よくよく知る人なのだということを改めて知らされました。

 

私は、日々起こる様々な事件や出来事に対して、共鳴しすぎるところがあります。それは、ニュースになるようなことだけではなく、日常的な出来事の中でもそうです。若い頃は、この厄介な感受性がとても嫌いでした。持て余し、コントロールが出来ませんでした。辛い事件や、他人が傷つくことに、いちいち傷つきました。

年齢を重ねた今の私は、家族でもない私が、ただ後藤さんの死を嘆き悲しむことに意味を持たない事を知っています。意味を持たないだけでなく、ネガティブな感情にただ支配されることは私にも他にも何も生まず、いいことなど1つもないことも知っています。それほどまでに本当に悲しいのであれば、この気持ちは、別のものに向かわせ乗り越えた方が良い。

後藤健二さんと言うジャーナリストのことを知ろうと思います。後藤健二さんが何を伝えていたかを知ろうと思います。そしてほんの少しでも、他国の戦火にある子どもたちや、弱者と呼ばれる方たちに思いを馳せようと思います。それが何もできない個人である私にせめて出来ることだと思うから。

自分ごととして想うことの苦しさからどうやって気持ちを立て直すか。それは自分に何ができるかを考え、それが仮に誰にも知られない小さなことであったとしても、行動を起こすことだと思います。

 

後藤さん、湯川さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

名古屋市女性殺害 女子学生事件について。「人を殺してみたかった」。

宗教活動への勧誘をきっかけに知り合った77歳の女性を殺害した容疑で逮捕された名古屋大の女子学生は「子どものころから人を殺してみたかった」と供述。凶器の手おのは「数年前に手に入れた」というこの事件。

 

 

「人を殺してみたい」という気持ちは、多くの方同様、私には全く理解ができません。殺してみたかったから殺す、とは、あまりにも理不尽、身勝手であり、どんな理由があっても容認される余地はありません。また、高校時代に友人に毒を飲ませ、その人生を狂わせたという供述も大きな衝撃でした。被害者やそのご家族を思えば、やりきれなさが募ります。

 

 

しかしなぜ、彼女はこの反社会的な欲望から逃れられなかったのか。社会に対する反感や憤りからの秋葉原事件等と、「人を殺してみたかった」と供述する10代からの若い世代の凶悪といえる犯罪とは性質が違うように思うのです。

 

 

人間の幼児期は残酷です。虫を口に入れようとしたり、羽をむしったり潰したり。小動物や犬猫に対しても、そのものへ恐怖がなければ、伸ばした手はその生き物を躊躇なく力の加減なく掴む。しかし私たちは、誰もが、幼児のそれに悪意がないことを知っています。

太古、動物を狩り、それを食することは生きる手段として当然のことでした。動物の腹を裂き、食せない内臓を取り出すことは、残酷なことではありませんでした。

現代においての子どもの倫理観や、生き物の命への尊重の気持ちは、自然にわき起こるものではなく、周囲の人間によって、育まれるものだと思います。

 

幼児に、虫にも命があることを教え、それをされたら相手が痛いのだと学ばせていく。繰り返し、色々な形で大人に指導され、生き物と接していく中で、子どもは倫理観や死生観を学んでいきます。

 

 

成育過程の中で、その倫理観なりが、なんらかの要因で阻害されることがあり、その上に死生観を学ぶ機会が充分でなければ、「死んだらどうなるのだろう」という誰もが持つ素朴なはずの疑問や好奇心が、歪んだ欲望に変化する可能性もあるのではないか、と思うのです。 だからどうだ、と言われるでしょう。

 

しかし、核家族化が進み、私のように虫も触れない大人が増えた現代は、人や生き物の現実的な「死」に触れる機会は、過去と比較して激減していると言えるでしょう。その反面、子どもの身近にあるゲームやアニメ、テレビドラマの世界では「死」や「血」が見慣れたものとしてそこにあり、殺人事件に胸を痛めることなく物語は展開される。幻想のような「死」が身近にありながら、現実感には乏しい世界を、子どもたちは生きています。

去年の佐世保の女子高生の同級生殺害事件同様、「人を殺してみたい」という身勝手な動機は、単純に精神疾患であり、自分とは全く別物だと思うことは簡単で納得しやすいものですし、実際、元々本人が持っている性質として、矯正が困難だという場合もあるでしょう。

しかし一方で。「死んだらどうなるのだろう」、ここに端を発する好奇心が、様々な要因によって歪んだ欲求に変化する可能性も否めないとも思うのです。好奇心は知識欲を刺激します。知識が増えていく毎に、新しい知識を欲しがるようになる。 精神疾患とは別の部分で、高度な知能を持つ子どもほど、実は何かの要因が幾重にも重なれば、人としての感情を置き去りにしたところでの、暗い好奇心を煽ってしまうことがあるのではないか。

結果的にこのような犯罪をおこしてしまう「可能性」に辿り着くこともあるかと。

しかしこの段階ではあくまで「可能性」であり、辿り着いたとしても、行動に起こすには、まだまだ大きな隔たりがあります。

 

「人を殺したい欲求」など、一般に理解できる感覚ではないので、精神疾患を疑うことを否定するわけではありません。しかし、そうだとしても単純に、犯人が異常だからという一言で片づけられるとも思いません。

 動機が常軌を逸していますので反論は当然ですし、環境のせいにして許されることでは無いことも当然承知しています。

 

 

「殺してみたい」

これは、自分自身や家族や周囲の人間、社会に対して愛情を強く持つ人間には到底及ばない発想です。逆に言えば、これらの愛情や信頼感がなく、親子関係を始めとする人間関係の根本が希薄であれば、何かのタイミングが重なってしまった時に、抑圧してきた好奇心を押さえ留めることが「未熟故に」できなくなってしまうことがあるのではないかと思うのです。

 

 

彼らは、自分が賢いことは知っているでしょう。

しかし、想像力や共感性が欠如している。

 

 

1人の人間が死んだときに、周囲の人間がどれほど悲しむか苦しむかが、自分の事として体感、想像が出来ない。自分の行動が、自分を取り巻く人たちをどれほど傷つけるのか実感することができない。

彼らの精神構造に仮に問題があったとしても、そのような人間は一定数存在するでしょう。しかし、存在していたとしても、殆どの人間は欲望を行動には移さない。その差はどこにあるのか。

 

 

大人の目による、適切な対処ができていなかった可能性は大きいのではないでしょうか。では、この場合の「適切な対処」とは何でしょう。

 

特異である彼らにとっては、学校の授業や家庭で「命の大切さ」を教えることや、傷つけられる人の気持ちに寄り添うことを指導する。こんなことでは通じなかったでしょう。

そもそも、そんなもので「命の大切さ」が理解できる感覚が持てる人間であれば、これほど身勝手な動機で殺人は起こさない。

 

 

彼らの成長過程のどこか、できるかで早い段階で、身近な大人が、特異性に気付く。次に残虐性を持つあの幼児期にまでさかのぼり、育て直しをする。この2点が行われていたら、回避できていた事件ではないかと思うのです。そのためには、いい意味で子どもの良心を疑うことも必要で、疑うことは、子どもを信じないということではありません。正しく見る、ということです。あるがままに見る、ということです。

 

思考に歪みを生じさせる何かが、成育歴のどこかであったかなかったか。あるいは、元々持っているものとして歪んだものを発見する。具体的に、どの段階で、彼らが一般的でなくなっていったのか、原因を探る。精神疾患であれば専門家の手を借りることが必要でしょう。どちらにせよ、彼らの思いを受け止め、凶行の1歩手前で、思いとどまらせる人間にすることは、周囲の大人の見守りの目の中で出来ると思うのです。

 

「人を殺してはいけない」ということが仮に理解できなかったとしても、「殺さない」という判断ができる人間になることは可能です。これは、法律が無ければ、殺人はもっと安易に行われるだろうと推測されることからも、言えることではないでしょうか。

 

 

擁護するつもりではありません。

加害者は許されるべきではありません。

 

しかし単に、犯罪の性質や加害者の異常性を批判するだけであれば、今後もこのような残虐で理不尽な事件は起こり得るでしょう。少年犯罪の多くは、彼らと私たちとの共通性がどこかにある。若年層の凶悪犯罪は、彼らの子ども時代から続く、大人である私たちの責任でもあり、課題でもあると思います。

 

 

被害者の方のご冥福を心よりお祈りします。